わずか4歳でピアノに夢中になってしまった自分は勢いが止まるどころかここからが
スタートでした。今思い返せば言葉を覚えると同じくしてピアノを習っていたのかな
と思います。小学生で音大の先生にレッスンを受けに毎週東京通い!明けても暮れて
ピアノ漬の毎日、そしてありとあらゆるところから演奏の依頼があり、そういえば当
時あのドリフターズの人気番組にも出て、”作詞家のなかにし礼さん”からも「子供の
演奏じゃない!やるなー!」と好評価も受けてしまいました。もちろん小学校では全
校生徒が「ピアノの栗田くん」を知らない人はいませんでした。
さてここで多くの方は疑問に思うことがあると思います。陶器店の子がいったい誰の
手助けでそんなことが出来た?と・・?そうです!何を隠そう私の音楽人生を一から
支えてくれたのは父親でした。よく「丈資くんのお父さんは何してる人?」とか「お父
さん熱心だね~」と言われました。そりゃそうです、コンクールとかステージがあれ
ば朝から付いてきて晩まで横にいるのですから・・・ステージパパの話もすでに50
年以上も前の話ですよ。父は当店の二代目でしたが歌手になりたかったような人で
アコーディオンも弾いておりました。商売は母と祖母がそれは熱心にさせていただ
きました。この事を知っている方は少なからず多くおります。(笑)
そんなわけで私は高校も音楽高校のピアノ科に通い、その後音楽的進路を迷った結果、アメリカのボストンに世界有数のジャズの大学があると聞きつけて来ました。そして留学を決めましたがここからがこれまた大変でした。今でこそ留学は珍しくありませんが40年前はまだまだ珍しくて成田空港もなく、羽田の国際線の赤い絨毯を歩いて同級生が見送ってくれた事を今でも鮮明に覚えてます。留学までの準備や、いざボストン
に着いてからの出来事等々そこは想像を絶する世界でした。大学生活や身の危険にさらされた事、演奏の事、人との出会い、また次号にて語ります。ボストンは日本の青森
と緯度がほぼ同じです。冬は大変寒いところですが春と秋は素晴らしい季節です。続く
(栗田屋本店 彩り通信 掲載コラム 2018/5)