STORY栗田丈資物語
01鍵盤との出会い
わたしが4歳の時に近所の楽器店で買ってもらったピアニカ(鍵盤ハーモニカ)…これがわたしと鍵盤との始まりでした。そしてすぐにピアノに魅せられ、明けても暮れてもピアノに向かい生意気にも小学生の時にジャズに出会い惚れ込んでしまいました。
それはピアニスト オスカーピーターソンのWe get requestsというアルバムでした。もちろんいきなりジャズを始めたわけではなく、ポピュラー音楽、ラテン音楽、映画音楽などを知りながら、バドパウエル、セロニアスモンク、ジミースミス、スタンゲッツ、ウェスモンゴメリーとたくさん聴きました。小学5年生の自分は「枯葉」の楽譜を探しに近所の楽器店に行ったことを覚えています。
ただ楽譜は無く、偶然そこにいたギターを弾く楽器店の方が手書きで楽譜をわたしに書いてくれました。
ジャズを弾きたくても当時は情報を得るテキストすらほとんどなく、遠い存在のプレイヤーの演奏を年に数回鑑賞する程度でした。
02「ピアノのくりたくん」
当時わたしのようなピアノを弾く男の子は珍しく、どこからともなくテレビ番組やファッションショーに呼ばれたり、コンクールや発表会後のデモ演奏もよく頼まれていました。ドリフターズの「8時だよ全員集合」の前身番組にも何回か呼ばれ、作曲家のなかにし礼さんとはその時に知り合いました。また、女優の浜美枝さんと一緒にお仕事をさせていただいたり、俳優の三船敏郎さんなどもご紹介いただきました。
ですから、学校中でいつの間にか「ピアノのくりたくん」になっていました。
しかし、なぜ小学生の自分がそんな事ができたのでしょうか?それはわたしの父のサポートがあったからです。わたしの父はいわゆるステージパパで、わたしのピアノに関するすべての面倒をみてくれました。
レッスンや出場したコンクールなどは朝から夜までずっと横に付いているのですから、周りの方から「くりたくんのお父さんは何をしてる人?」とよく聞かれました。
03一番ピアノに触れた時期
そんな私は中学生の時にはオスカーピーターソンやジミースミスの真似事をはじめ、現在の浜松学芸高等学校音楽科ピアノ専攻時代にはベートーヴェンやショパンの後にジャズを弾いておりました。
文化祭では同級生の男子にベースとドラムを任せてオスカーピーターソンの「酒とバラの日々」などを真似ては演奏をしていました。
その頃のわたしは、クラシックピアノと当時流行っていたヤマハのエレクトーンにも夢中になり、コンクールの常連に。全国大会入賞をきっかけに高校生の分際でヤマハの特別講師となり全国各地でデモストレーション演奏をしておりました。
進学希望は国立音大のピアノ科で、同大学ピアノ科教授だったウラジミール竹ノ内先生に中学と高校の六年間毎週日曜日に東京都調布市までレッスンに通っておりました。
04バークリー音楽大学との出会い
さてそんな高校三年生のある日、当時のヤマハのリゾート施設「つま恋」からジャズライブでピアノを弾いてみないか?と日本楽器浜松支店の担当者から連絡をもらいました。今思えばどんな演奏をしたかはっきり記憶はしていませんが、アンサンブルの臨場感とジャズ特有のテンションに衝撃を受け、まさにジャズに引き込まれてしまいました。
そしてその時共演したミュージシャンから初めて「アメリカにあるバークリー音楽大学」の存在を知りました。ジャズの大学?そんな大学があるの?これまで自分が関わってきたクラシックやエレクトーンの分野にはない自由で大きなジャズの世界を知るに至り、わたしはバークリー音楽大学への留学を決意しました。浜松と東京で二人の先生にも自分の考えを伝え、進路変更も理解していただき、多くの方の支援をいただきながら、1977年当時の羽田空港から高校の同級生に見送られて単身渡米をしました。赤いじゅうたんを歩いた事を今でも覚えています。
1981年ピアニスト ビリーテイラーより卒業証書を授与されました。